【ピアノのためのワルツ】ショパンの有名どころを厳選!!

 

読者様はワルツというと、どんな曲を連想しますか?

 

ズンチャッチャ♪ズンチャッチャ♪

 

そうなんです!このリズムです。

 

ワルツは3拍子の舞曲、あるいはそれに合わせて踊るダンスのことを指します。

 

バレエ音楽やオーケストラの曲として使われることもよくあるワルツですが、今回はピアノのためにつくられたワルツに焦点を当ててみました。

 

ピアノ曲のワルツといえば、、、ショパン作曲のワルツが浮かびます。

 

ショパンは「ピアノの詩人」と呼ばれるほど、生み出した作品のほとんどをピアノ独奏曲が占めています。

 

中でもワルツは、ゆったりとした美しいメロディの特徴をもっていて大変人気も高いです。

 

ショパンの曲の中でもワルツは比較的易しいものが多く、練習に取り組みやすいこともありピアノ歴が浅い人にもおすすめなんです。

 

ショパンの名は広く知られているので代表作は数多くありますが、今回はショパンのワルツの素晴らしさをお伝えできればと思います。

 

それでは、作品誕生の背景となるショパンの生涯と、厳選したショパンの美しいワルツをご紹介しますね♪

 

 

「ピアノの詩人」ショパンが作ったワルツの魅力に迫る

 

ショパンといえば、誰もが知っている作曲家・ピアニストですよね。

 

今まで音楽にあまり触れたことのない方もご存じだと思います。

 

過去にはショパンの肖像がポーランドの紙幣にも使われ、人気も知名度も高い音楽家であることがわかります。

 

ショパンが病弱だったという話は有名で、わずか39歳という若さでこの世を去りました。

 

ショパンは長年、肺の疾患に悩まされながらも名曲を作り続けました。

 

とても興味深いことに、繊細なイメージ通りの作風の曲だけでなく、情熱的な作風の曲も見られるんです。

 

それは陽気でユーモアにあふれる性格の持ち主だったと言われていることも関係しているのではないかと思われます。

 

では、気になるショパンの生涯からお伝えしていきますね。

 

名曲が誕生した背景(ショパンの生涯)

ショパン(フレデリック・ショパン1810-1849)は1810年、ポーランドの地でフランス人の父とポーランド人の母との間に生まれました。

 

お父さんはフルートとバイオリンが演奏でき、お母さんはピアノに長けていたそうです。

 

ショパンは、楽器の音色が響きわたる家庭で育ったんですね。(素敵です♪)

 

幼い頃、お母さんのピアノを聴いて感極まり、涙したこともあるんだとか。

 

しかし最初にピアノを教えてもらったのはお母さんからではなく、お姉さんだったという話もあります。(お姉さんと仲良しだったんですね!)

 

6歳のときヴォイチェフ・ジヴヌィから音楽を本格的に教わり始め、翌年からピアノを習い始めます。

 

この頃すでに耳にした旋律を再現しようとしたり、新たなメロディーを作ろうとしていました。

 

そして7歳のとき「ポロネーズ ト短調」を作曲します。(7歳で作曲とは、びっくり仰天ですね)

 

これが現存するショパンの最初の作品です。

 

若きショパンの実力は、あっという間に師匠を超えていきました。

 

1818年、8歳の頃ワルシャワで初めての公開演奏を行います。

 

そのとき聴衆からは、あの神童モーツァルト(1756-1791)の再来だ!と騒がれたほどで、卓越した才能はまたたく間に注目を浴びるようになります。

 

早々にピアノの才能を開花させたショパンですが、沢山の友達がいる多才な少年だったんだとか。

 

彼は幼少期からユーモアにあふれ、他人の仕草や表情を上手に真似たり漫画を描くのも得意で、学校ではクラスの人気者でした。(得意なのはピアノだけじゃなかったんですね!)

 

そして11歳の頃には、ワルシャワに来ていたロシアの皇帝の御前で演奏をしたり、ポーランドの副王の息子の遊び相手として宮殿に招かれることもありました。

 

そのとき、怒りっぽい副王をピアノの演奏によってなだめたという話があります。

 

この御前演奏を重ねたことがショパンを一躍有名にしたのです。

 

そして13歳の頃、ワルシャワで最高のピアニストと絶賛されるまでになりました。

 

このときすでに即興演奏の技術は高く、聴衆を魅了します。

 

そして1826年、16歳のときお父さんの勧めで音楽院に入学することになります。

 

在学中、妹を結核で亡くすという何とも悲しい出来事がありますが、入学から3年後ショパンは首席で卒業します。

 

音楽院の先生は、ショパンの通知書に「顕著な才能」「音楽の天才」と記したそうです。(一度でいいからそう書かれてみたいですよね!)

 

1829年卒業後、ウィーンで演奏会を開きます。

 

今も当時も音楽家の憧れの地、ウィーン。

 

好意的な評価が多かった半面、残念なことに「ピアノからは小さな音しか出なかった」との批判の声がありました。

 

ショパンは繊細なニュアンスを重視していたので、その美しい音色は広い会場では隅々まで伝わらなかったとも言われています。

 

しかしその背景には、当時オーストリアがポーランドに対し政治的に敵対していたことも関係があるというお話があります。

 

ポーランドという看板を背負ってウィーンに出てきたショパンに反感があったのです。(芸術は美しいものなのに、政治を持ち込まないでもらいたいです…)

 

1830年ウィーンで過ごす中、「ポーランドで11月蜂起が勃発した」という知らせを受けます。

 

その時、祖国への強い郷愁を抱いたショパンを家族が説得し、ショパンはポーランドに戻ることを諦めました。

 

結局、ショパンは生涯二度とポーランドへ帰国することはなくなってしまいます。

 

そして1831年ウィーンを去ることに。

 

音楽の都で成功を夢見たショパンですが、ウィーンを諦めパリへ旅立ったのです。

 

この頃、別居中のデルティナ・ポトツカ伯爵夫人(ポーランドの歌手)と交流をもち始めていました。

 

美貌と美声の持ち主で、彼女も音楽的な才能をもっていました。

 

(彼女はのちに、ショパンの人生において重要な役どころとなりますので覚えておいてください♪)

 

1832年パリで演奏会を開き、誰もがショパンを賞賛しました。

 

それはそれは、ウィーンでの体験とは正反対のものでした。

 

パリではヨーロッパ中から弟子が集まり、ショパンは弟子への指導で相当の収入を得ていたという話もあります。

 

演奏会の開催については、ショパンがもともと公開演奏が好きではなかったことから、年1回のみパリで行われました。

 

ショパンは貴族や芸術・文学エリートが集まるサロンで頻繁に演奏をしたり、友人が集まった自宅で演奏することを好んでいました。

 

生涯を通じての演奏会は、30回ちょっとしか行われなかったそうです。

 

すでに彼の健康状態は思わしくなく、ヴィルトゥオーゾとしてあちこち外遊することもできませんでした。

 

そして1836年、ショパンは26歳のときマリア・ヴォジンスカという女性に求婚します。

 

マリアが幼い頃から家族ぐるみの仲でしたが5年ぶりに再会し、知的かつ芸術の才に恵まれ、魅力的なマリアに心を奪われたのです。

 

しかしマリアは16,7歳とまだ若かったこと、ショパンの健康状態の悪さからマリアの両親に結婚を無期限延期と言われてしまいます。

 

そして1837年、結局マリアとの結婚は破談になります。

 

その後しばらくはポトツカ夫人がショパンにとって、創造上かつ女性として興味を注ぐ対象となっていたそうです。

 

さらに、マリアに求婚した年にはリストの愛人のホームパーティで、ショパンはジョルジュ・サンドという文筆家の女性とも知り合っていました。(なんか、いろいろとドロドロしていますね(笑))

 

リストと同様に、ショパンも異性から大変モテたんでしょうね。

 

1838年ショパンはサンドと交際をスタートさせ、サンドの子供たちとも一緒に過ごしていました。

 

1839年から、冬はパリ、夏はノアン(サンドの別荘)で暮らす生活が始まります。

 

ノアンで過ごす夏も、静かながらも創造的な日々になっていたようです。

 

しかしショパンの病状は日に日に悪化を続けます。

 

サンドは恋人との生活というより看護中心の生活となり、ショパンの身の回りのことを色々行っていましたがイラ立ちも感じていました。

 

1847年にサンドは小説を出版しています。

 

それは「主人公の裕福な女優と身体の弱い王子」の話で、サンドとショパンを指すと解釈できます。

 

校正を手伝ったショパンはこの失礼な内容に気を悪くします。

 

1847年の夏、ショパンはノアンに訪れませんでした。

 

共通の友人が二人を和解させようとするものの、ショパンはそれに応じることはなかったそうです。(ショパンは頑固な性格だった?)

 

9年にも及ぶ二人の関係に終止符を打ちましたが、この頃「幻想曲」「英雄ポロネーズ」「舟歌」などたくさんの傑作が生まれています。

 

1848年演奏会を開きますが、実はショパンにとってこれがパリでの最後の演奏となってしまいます。

 

この頃のショパンは階段の昇降を一人ではできないほどになっていました。

 

それでもイギリスへ公開演奏にいきますが、多忙から体調がさらに悪化することになります。

 

パリから戻った後はレッスンを行う体力はもはや無く、生活費の大半と医療費も不足するようになり、家具などの所有物を売り払うこともしたんだとか。(やはり医療費がかさんでいたのでしょうか)

 

そんな体調の悪い中、ショパンの作曲への熱意は冷めていなかったといいます。

 

1849年「家族と共に居たい」とショパンは強く願い、姉ルドヴィカがパリに来てくれます。

 

亡くなる数日前に、ショパンは「ジョルジュ・サンドが『私の腕の中で息を引き取らせてあげる』と約束したのに」と不平を口にします。

 

その後ショパンの危篤を知り、駆けつけたのは…サンドではなく、ポトツカでした。

 

「あなたの歌を聴きたい。」

 

ポトツカはショパンの望み通り、彼の苦しみを癒すためにその美しい声でイタリアの古いアリアや讃美歌を歌ったんだそうです。

 

ショパンと彼女は友情で結ばれていましたが、一時は恋愛関係にもあったと言われています。

 

特別な人から贈られた歌…ショパンにとって、これが最後に触れた音楽でした。

 

そしてショパンは、お姉さんと一握りの近しい友人のみに囲まれて息を引き取ったそうです。

 

幼少期から友情を大切にしてきたショパン。

 

最後に親しい友人たちに会えてよかったですね。

 

ショパンの亡骸はパリの墓地に葬られましたが、のちにお姉さんがショパンの心臓をワルシャワに戻し、ショパンの遺志を叶えました。

 

ショパンの後半生の大部分はフランスで過ごしましたが、さすがお姉さま…ショパンの心がいつも母国ポーランドにあったことをわかっていました。

 

ここまでいかがでしたか?

 

ショパンは生まれたときも、亡くなるときも音楽と一緒だったということがお分かりいただけたと思います。

 

ショパンの人生はいつも音楽と共にありました。

 

でも病弱だったショパンは、ヴィルトゥオーゾとして各地を回ることも、公の場に出ることさえも積極的にしようとはしませんでした。

 

それにもかかわらず、ショパンがピアニストとして最大級の名声を得ていたことは非常に特殊だったと言われています。

 

やはり「音楽の天才」という言葉は彼に相応しいのでしょうね。

 

ショパンの美しいワルツ4選

お待たせしました!

 

ショパンがどういう人物だったのかわかったところで、いよいよショパン作曲のワルツをご紹介します♪

 

ショパンは、生涯で19曲のワルツを書きました。

 

「ワルツ」というありふれたリズムを用いても、ショパンならではの独創性が光る作品の数々になっています。

 

映画やテレビで使われることもあるので、聞き覚えのある方も多いと思います。

 

でも実際に弾くとなると、「ショパンの曲って難易度が高いのでは?」と身構えてしまうかもしれません、がそんなことはありません。

 

ショパンのワルツは比較的演奏しやすいものが多く、ショパン演奏の入門としてピアノレッスンではしばしば用いられるんです。

 

ではショパンのワルツ19曲のうち、有名な4曲を取り上げたいと思います。

 

ぜひ聴いてみてください♪

 

ワルツ第1番変ホ長調Op.18「華麗なる大円舞曲」

 

ショパンのワルツ作品の第1作目、若いころの作品です。

 

1833年作曲、1834年出版、ピアノの弟子の一人に捧げられた曲でもあります。

 

注)最初に出版されたワルツですが、最初に生まれたワルツではありません。

 

ショパンのワルツの中で最もポピュラーな曲とも言われています。

 

華やかなファンファーレの後に軽やかな主題が始まります。

 

そして最後は3オクターブのユニゾンで曲をしめます。

 

この曲は、全体を通して同音連打の技術が必要で、弾きやすい指番号を使うことがこの曲を上手く弾くための重要なポイントになってきます。

 

ショパンらしい魅惑的で明るく華やかな曲調をしていて、個人的にとても好きな曲です。

 

(指番号に関する記事はこちら→【ピアノの楽譜】指番号の付け方

 

ワルツ第6番変ニ長調Op.64-1「子犬のワルツ」

 

1846~47年、ショパンの晩年に書かれたワルツです。

 

恋人のジョルジュ・サンドとの不思議な関係が安定期を過ぎ、破局を迎えようとしていた頃の作品。

 

子犬が自分のしっぽを追いかけてクルクル回る様子から作曲されたと言われています。

 

中盤の高く短い音は、子犬に付いている鈴の音をイメージしているんだとか。

 

この曲はのちにポトツカ夫人に捧げられた曲とも言われています。

 

病気にむしばまれていくショパン、自由すぎる子犬を見て表現したいことがあったのかもしれませんね。

 

ワルツ第7番嬰ハ短調Op.64-2

 

この曲は、番号が振られただけでタイトルがつけられていません。

 

生前に出版された、ショパンにとって最後のワルツ作品の一つです。

 

彼が亡くなる2年前に作曲されました。

 

主題にはマズルカといわれるポーランドの民族舞踊の形式が採用されています。

 

ショパン作曲技術の集大成ともいわれる作品。

 

どこか物憂いげですがエレガントな雰囲気の曲です。

 

難易度がそれほど高くないことから愛奏者も多いですね。

 

ワルツ第9番変イ長調Op.69-1「告別」

 

こちらは1835年に作曲され、悲しい恋に終わったマリアとの「別れのワルツ」として有名です。

 

生前には出版されず、1853年にユリアン・フォンタナ(ポーランドの作曲家)によって出版されました。

 

ロマンチックで気品の感じられる魅力的な曲になっています。

 

ここまでいかがでしたか?

 

一般的に、ショパンのワルツは「高貴で洗練された響きに満ちあふれている」と言われることが多いんです。

 

同時代でショパンをよく知っていた作曲家シューマンは「もし(ショパンの)ワルツに合わせて踊るのであれば、その相手は貴婦人でなければならない」と言いました。

 

それはつまり、ショパンの作曲したワルツが、当時本場のウィーンで流行した大衆的なワルツではなく、パリの高貴な婦人たちと楽しむためのワルツに聴こえるという意味です。(なるほど!うなずけますね)

 

読者様もショパンの優雅なワルツの世界に足を踏み入れてみませんか?

 

今回ご紹介したオリジナル(原曲)は、実はどれも中級に位置付けられています。(中級!?む、難しいのでは?)

 

大丈夫です。弾いてみたいと思ったら、その憧れる気持ちを原動力に変えてみてください♪

 

基礎をしっかり積んでこられた方なら、練習量でカバーできるレベルかと思います。

 

ピアノを始めたばかりで原曲は難しいと思われた方は、初心者向けにアレンジされた楽譜もありますのでご安心ください!

 

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こちらの初心者向けの楽譜を購入された方の口コミがこちらです。

 

原曲のイメージを損なうことなく、良いアレンジをされていると思います。何十年もピアノから遠ざかっていた私が、楽しんでピアノを弾いています。

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チャレンジは易しいものからで構いません♪

 

読者様が弾いてみたいと感じたり興味をもった曲から、ぜひ取り組んでみてくださいね。

 

皆さまのはじめの一歩をこれからも応援しています。

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 


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